膜④

真実の「私」は「無」として存在した。矛盾するような表現になるけどそれが一番しっくりくる。


その無としての存在を感じてみると
自己の確かさと力強さに
安心感と穏やかさを感じることができる。
これまた逆説的だ。


以前は確かに、その無が怖くて仕方なかった。
空白がいたたまれずに、何かせずにはいられなかったのに。


私は大きな大きな勘違いをしていたのかもしれない。


高機能ボディスーツをまとった肉体の中に、それと同化してしまわない程度の隙間を保ちつつ
自己はふわふわと無として存在している。


私達は「ひとつ」だと知っている自己が。


なんという心地よさだろう。


相変わらず、ボディスーツを着た肉体の私はそこらへんをウロチョロしてる。
きっと明日もウロチョロする。


でも
自己である私はその肉体をウロチョロさせておこうと思う。
好きなように。
感じるままに。
したいように。


起きること
起すこと
そのまんまさせておこうと思う。


そして、ウロチョロしながら私はアナタを想う。


どうしてるかな?
元気かな?
大丈夫だろうか?
腹立つなー!


いろいろ想う。
いいも悪いも全部ひっくるめていろいろ想う。


なぜ、人は人を想うのか?
突然わかったきがした。


人が人を想うのは
本当はひとつのものだからなのだ。


アナタと私という視覚的には別々のものでも、分離したものではないからだ。


だから、私は今も私でもあるアナタを想っている。


私が
あなたを心配するのは
あなたにムカつくのは
あなたを見て悲しくなるのは
あなたを見て嬉しくなるのは
あなたをいじりたくなるのは
あなたを愛おしいと思うのは


あなたも私も同じだからだ。


あなたも私もみんなみんなひとつだからだ。


あなたを想うのはあなたを求めているからだ。


あなたを求めているのは、ひとつに目覚めたいからだ。