微かな希望

傷ついたかもしれない。

傷つけたかもしれない。

 

 

いや。

 

確かに、傷ついた。

 

そして、確かに傷つけた。

 

 

その時

 

 

謝ったり

譲歩したり

理解しようとしたり

わかってもらおうとしたり

突っぱねたり

なだめたり

すかしたり

投げやりになったり

 

 

そんなこんなを

繰り返し

繰り返し

 

やっちゃうけれど

 

 

やっぱり

繋がっている。

 

 

そんなことに気づくと

 

信じられる。

 

こんな私を。

 

怖くない。

 

こんな私だけど。

 

 

それが微かな希望になるのか。

 

 

生きてていいんだなって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ケアのないセラピーは暴力

ケアは傷ついた心を触らないこと。

それ以上傷つかないように。

ただそっとそばにいる。

 

 

その傷つきが少し癒えてきて

心の体力が回復してきた時に

やっと、その

傷ついた心と向き合えるようになる。

傷つきと向き合うことをセラピーという。

 

 

ケアが先。

ケアの後にセラピーがある。

 

ケアのないセラピーは

ただの暴力となる。

 

知識による分析や

平べったいアドバイス

まるで武器のように

傷つけるから。

 

それを忘れないようにしたい。

 

これまで

散々やってきたから

ごめんなさい。

 

 

 

受け入れられない

とても受け入れることのできない出来事は起きる。

 

 

 

大きな出来事だけでなく

些細な出来事だって。

 

 

次から次へと起こる。

 

 

その出来事に対して精一杯の抵抗しかできないことだってある。

 

 

それが、最も素直で

最も今必要としている反応ならば

 

その抵抗にすらコンパッションを向けていこう。

 

その怯えた心に気づき

寄り添って

ほんの少しの元気や勇気の

胡麻つぶみたいな

タネを撒いておこう。

 

 

いつか必ずそのタネは

思いやりという

水や栄養を得て

芽を出すはずだから。

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やっと我に返った瞬間

親がかなり低い怒りの沸点を持った

ちょっと異常な認知の

親ではなく、他人に思えたから。

 

あー、やっと私はマインドコントロールから抜けつつあるんだなと思った。

 

抜けた、とは言えず、抜けつつあると言わざるを得ないところが悲しいところ。

 

非常に悲しいところ。

 

 

親がたまたまこんなんで

 

悲嘆に暮れている。

 

 

悲嘆に暮れる。

 

 

この表現にこんなにマッチした心境を

かつて味わったことがない。

「私は被害者」

被害者であるという自意識は

ひょっとすると

1番手っ取り早く手に入れられる

わかりづらく

歪められた

自尊心かもしれない。

 

 

被害者であることで

人を非難できる。

優越感を無意識に得ている。

 

 

よって

被害者意識は思いの外

堂々と

いとも簡単に

私の意識に居座り続ける。